スタジオサンアンドムーン四谷 Studio Sun and Moon

 
北京一(パントマイム)
2019/04/21(日) 
インタビュアー:MAHA(ベリーダンサー・studio sun and moon主宰)
インタビュー構成:赤川
 

■マイム、出会い、サンフランシスコ、パリ。
 

北京一 マイム パントマイム スタジオサンアンドムーン studio san and moon

MAHA:北京一さんへのインタビューということで。まず何故、パントマイムを一番やりたかったのか?というところから。
北:やっぱ一番ドキっとしたからね。いろんな人の舞台、並びに音楽ね、ダンス、芝居、小さい時からいろいろ観てましたけど、パントマイムを観たときにものすごい衝撃を受けた。だから、それをしたいと。
MAHA:どこで始めたんですか。
北:一番初めに見たのはね、やはりチャーリー・チャップリンの映画の中で。それは、物はあるけれど喋らない、という。
MAHA:無声映画。
北:そういうことですね、それがあったんですが、それから僕が中学生かそれくらいの時、テレビでフランスからパントマイム巨匠、といって昼のバラエティショーで紹介されたのがマルセル・マルソーさん。ぱっと見たら黒いタイツで身を固め、スタジオの中ではチャップリンのように物はなく、何もない空間で身体一つで椅子に座っているところから始まるんですよ。椅子ないんですよ。「あれっ?」って僕いかれて。そっからもうはまり込んで。その男はパっと立って、前の方に向かって歩くんやけど、“歩いてなくて”歩いている。そんで窓を開ける、その窓から首を出す、表をパっと見る、下を見る、それがすごく高い窓だということがわかるんですよ!これ一体何?って。そんでその男は窓からグーっと出て行って、高い高層ビルの窓ですよね。下を見てヒョっ!と言いながら壁伝いにスーっと進んでいって、次の部屋の窓まで行って、窓を開けてパっと隣の部屋に入り込むと。ていうシーンを一人でやられた。はまりましたね、私。
MAHA:それが中学生の時。
北:ですね。でも、はまったはいいけどどうしていいかわかりませんよね。だから見様見真似で“物がある(無対象)”というようなことをやってみていた。それが始め。
MAHA:当時住んでいらした大阪には(マイムを)やっている人はいなかった?
北:いなかったですね。ヨネヤマママコさんというのが東京におられる、というのは知っておりましたけど。それから高校生になって、そのころはビートルズがどうの、ロックがどうの、演劇がどうの、こう今までないカルチャーがワーっと入ってきてね。
MAHA:時代でいうと何年代?
北:1960年代。学生運動そのあたりのね。その前から僕はマルセル・マルソーと、またロックにもはまり込みますよね、もちろん。1970年には万博もあって。
MAHA:世界のいろいろな情報が一気に入ってきたって感じ。
北:そう。でもその時にアヴァンギャルドもあり、ロックもあり、今までの固定された体制を壊す、反体制的というか反固定概念ですね。決められたものが全然違う角度ものになっちゃう。
MAHA:それは戦後の人たちって感じなのかな。
北:、て言うかね、戦争がずっとあって、世界大戦からベトナム戦争、次第にメディアがその情報をつかむ、戦争から帰還した人から話を聞く、テレビでそれを伝える、昔わからなかったことがどんどんわかるようになる、もう嘘かくしができなくなったっていう時代のときに、やはり文学とか演劇というのが庶民の心を赤裸々に言える場所であった。テレビは言えないですけど。演劇なんかは何言うてもいいわけですから。寄席なんかもですよ。いうようなところで題材が“世界平和”“アンチ戦争”“アンチ人種差別”。で、ヒッピーで出てきて“black is beautiful”てなる。そういう社会のなかで僕は、じゃあ、日本では誰がそんなことやってんの、テレビなんかではないその「カウンターカルチャー」が美的にかっこええってなるわけですよ。その時にパントマイムもその社会の中で言っちゃいけないことを、言葉で言えないことをやって。
MAHA:確かにね。よく道化の人がパリでは体制を批判するためにマイムで表す。言葉じゃないから解釈はひとそれぞれ自由っていう。
北:そういうことです。だからサンフランシスコでヒッピーがバーっと出てきた。グレイトフルデットがキン・ケージーと一緒になって大学でショーをやっていくわけですよ。ビジュアルと詩の朗読とロックと。サイケデリックのアシッド・テスト。そのなかにも「戦争ダメだ」っていうひとつのムーブメント。その中でね、パントマイムもものすごく“いかってた”わけですよ。
MAHA:へー、サンフランシスコで。
北:そう。ヨーロッパのパントマイムとアメリカのパントマイムは歴史がちょっとちゃうんですよ。アメリカのパントマイムの歴史はサンフランシスコで、「サンフランシスコ・マイムトゥループ」っていうグループがありまして。1960年代です。アレン・ギンズバーグの詩の朗読や、ジミヘンとかジャニス・ジョプリンなんかがライブやったライブハウスの「フィルモア・ウェスト」。唯一のロックの殿堂のライブハウスやったんだけど、それを作ったのが何と「サンフランシスコ・マイムトゥループ」のプロデューサーやったんですよ。これはえらい有名な話。
MAHA:私はサンフランシスコでベリーダンスにはまりましたからね(笑)ニューヨークでも習ってたんだけど。振り付けを覚えるというよりも、サンフランシスコの自由さにはまりましたね。
北:サンフランシスコのヘイトアシュべリーなんて一つのコミューンでしたね。僕が行ったのは少し遅くて1974年、でもまだその残党の人たちがいて。みんな空手の下の白いパンツはいて、上半身みな裸で。泊まるとこなかったら、あー、もううち来たらー、って言ってみんな集まって一晩中パーティ、朝なったらはい、みんなさいならーって感じ(笑)それがサンフランシスコ、自由気ままな。(笑) あ、でパントマイムね(笑)まあそういうとこにピンときて、そっから出て行って、ブラック・マジック・サーカスとかなんかいろんなグループがあるんですよね。そこらのマイムも好きやけど、喋って、詩の朗読、絶叫ソングとかいろんなもの、あと実験ですよ、客席のなかにはいって客に詩を読ませる、同時にほかの客にも読ませる、そしてその内容がなんかみなの身体の中に入っていく、みたいなのとか。それからまた朝の8時まで20分くらいの芝居をリピートで延々とやるとか。実験ですよ。そんなことの経験が大変楽しかった。その中にパントマイムは職業的に、オペラがあるように、浪曲があるように、演歌があるように、身体を使ってストーリー、シチュエーションを見せる芸としては、一人で10人の人を相手にして喋ったりすることもできるし、すごい舞台芸術であると。
MAHA:芝居だとセリフも必要だし、舞台セットも必要だし、衣装も必要だし。パントマイムは何にもいらないですよね。
北:だからいろんな芝居の方も、イギリスの演出家バーコフさんとかいろんな人がパントマイムを習って芝居の中に入れられている。日舞にもマイム的要素がある。
MAHA:発祥はフランスなのかなって思ってたんですけど。全世界的にあるんでしょうね。
北:ま、一応ね。格闘技が全世界にあるように、形は違うけどそれぞれの国に格闘技があってそれぞれのメソッド、テクニック、トレーニングがある。演劇、ダンスの中でも無言でなんかしようとしたとき、例えば雨の中のシーンでちょっと襟を立てるだけで雨の中にいるって見えるんじゃなかろかっ、ていうことは皆さんやっておられるかもしれない。でもそこのところだけ(雨の中にいる)を抽出してひとつのストーリーを作っているのはやっぱり、フランスのマルソーたちが磨きをかけて一つの芸にしたと言えますね。
MAHA:では北さんは初めはアメリカに行って、そのあとはやはりフランスへ?
北:パリに行きましたよ。アメリカでは僕、全然パントマイム見つけられなかった。僕の思ってるパントマイムはなかった。サンフランシスコのマイムの方もいてるけど、やっぱ僕とは違った。
MAHA:サンフランシスコのカルチャーは気に入ったけど、パントマイムは見つけられなかったってこと。
北:そうそう。僕はアメリカ行ってサンフランシスコもロスも好きやったし、ニューヨーク以外にもデトロイトとかブラックの音楽好きやったからミシシッピーとかメンフィスとかあの辺のサウンドかっこええーって思ってたけど。でもやっぱパントマイムに関しては僕調べたところ、1930年にフランスに演劇学校ヴィユ・コロンビエってのがあって、そのなかに身体表現(コーポレイルマイム)ていうクラスを作った人がエチエンヌ・デュクルーさん。そのデュクルーさんが筋肉で感情は出てくるだろう、というようなことを言っていた。筋肉が言葉である、だからそこんとこを練習しましょうよ、と。この方はもともとコメディフランセーズのバレリーナやった人。ただもうクラッシックバレエには飽きてるわけだ。「スワン・レイク」だの決まった役に自分をあてはめていくっていうのは自分のダンサー人生のなかでちょっとつまんないんじゃないの、と。といったときに、デュクルーさん、クラッシックバレエでは教えない自分の動きの練習の仕方や感情の入れ方のテクニックがあって、それをその演劇学校ヴィユ・コロンビエで教えてた。そこの生徒のなかにマルセル・マルソーさんとジャン・ルイ・バローさんがいたわけですよ。のちの「天井桟敷の人々」に出演した人ね。そのあとはサン・ジェルマン劇場のアートディレクターにおなりなって。あの方々がデュクルーさんのクラスで学んだ。特に、マルソーははまり込んだのね。そして独自でキャラクターを作って無言の芝居をやっていくわけですよ。これはもう素晴らしいこと。僕らはその第二次世代として心を打たれて今に至っているわけですけど。
MAHA:で、北さんもエチエンヌ・デュクルー先生に習いに行ったと。
北:行きましたね。ロスから。その時は自分でなかなか悩んだんですよ、マイムをやめようかと。ほんとにマイムが好きなのか、パントマイムって一体何なんだろうと。皆さん、みんな道端でやったりとか、ちょっと壁ができたらうれしいなあ、とか、ロープ引っ張れたらいいなあ、とかまあ、お客さんは見ればそれなりにおおーってなる、でもそれちょっとどうなんだろう、と。というところでパリのデュクルーさんにお会いして、それとデュクルーさんに学んでいる若い人たちの考えを知りたかった。先生もやけど先生に集まってくる人たちね。
MAHA:それは演劇学校なんですか。
北:いや、僕が行ったときはもうエチエンヌ・デュクルーさんのおうちで、彼のスタジオでレッスンしてました。大体20名くらいですかね、1年に。僕はロスから習いたいんですけど、って手紙書いて。そしたら、あ、いらっしゃいませって(笑)オッケー、ラッキー!ってロスからパリに行きましたけど。で、行って良かったと思った。ロスではなんか白塗りしてボーダーのTシャツ着てジャグリングをしながらマイムやって、ていう感じだったけど、パリではそんなんなかった。全然違う世界やったから。マルソー的に一人の人間が出てきてそこから何やストーリーが広がっていく。
MAHA:見世物というよりはやはり作品という。
北:完璧に作品ですね。シアターの。食べるためには皆さん道端でもやられるし、サーカスのピエロもおられるし、それはもちろん自由なんですけど。ご存知かとおもうけど僕は寄席の出身だし、そういうのは全然オッケーなんだけど。だけど僕はことにマイムに関してはやっぱり劇場的なところでっ、ていうね。
MAHA:聖域っていうか。マイムっていうものを大事にしたい。
北:そう、大事にしたい。

■マイム、ロック、寄席。
 

MAHA スタジオサンアンドムーン studio san and moon

MAHA:いろんなことを経験して、お笑いの漫才とか、音楽とか。それとパントマイムはちょっと別。
北:別です。僕はね漫才も歌も、僕もマイムのひとつの作品のように思ってる。相方とかみんなには悪いけど。こないだちょっと大阪の寄席で漫才やってきたんだけどね、映像みたらなかなか面白くて。
MAHA:それって何年ぶりで。
北:47年ぶり。
MAHA:え!47年!ライブハウスではチョコチョコやってたけど、寄席では47年ぶりってこと?
北:そう、だからいろんな人見に来はりましたよ。
MAHA:伝説の北京一・京ニ。47年前は鶴瓶さんが付き人だったっていう。
北:そうそう。
MAHA:じゃあ、中学生・高校生でマイムにはまったけれども、初めて舞台にたったのは寄席。
北:そう19歳。手品師、ゼンジー北京師匠の後見。
MAHA:「北京一」は「ペキンはじめ」?
北:そうよ。
MAHA:私昔「ペキンはじめ」の名前でパントマイムの広告見たことがある。ぴあだったかな。
北:そうあのころ、まだ東京乾電池もいてたころかな。僕とママコさんとマルセ太郎さんで3日間、六本木の地下の自由劇場で公演やったんですよ。
MAHA:お名前は知ってました。そのころから。
北:うん。僕アメリカには行ったけど、そこでは遊びほうけてバンドばかり見てて。日本帰ってきたらやっぱりバンドやってそっちにはまり込んだね。
MAHA:あ、じゃあ一度アメリカから帰国したんですね、そのままパリに行ったんじゃなくて。
北:そうそう。一回帰ってバンド作って、レコーディングしたりえらい派手にドッカンドッカンやってたわけなんです。東京の金子さん曰く、森園さん曰く、あのころは強烈だったみたいで、僕らのバンドは。大阪から来て怖いもん知らずというかメチャクチャやったからね。今だにその時の山岸さんていうのはニューオーリンズで超有名な世界的ギタリストやし、亡くなった石田長生もこれまた素晴らしいギタリストだった。強烈なバンドやった。
MAHA:でバンド活動やっているうちにやはりまたパントマイムやろうと。
北:いや、そん時はやっぱり今と一緒で、気が向いたらバンドのライブの前に一人でパントマイムやってましたよ。
MAHA:寄席に出たきっかけはお師匠さんのゼンジー北京さんもマジックのアシスタントから?
北:そう。それがね、僕そのころ高校出て専門学校行ってて。大阪難波の飲み屋さんで飲んでたら、偶然そこにゼンジーさんいて。マスターがこっちのお客さん(ゼンジーさん)えらいこと起きましてな、マジックの後見が夜逃げしよって、明日の仕事どないしようって言ってはりますねんて。誰かいてへんかなーって言ってたところに僕が、それお金なりますのん?って言って(笑)それが始まり。そして舞台でたらね、テレビでコント55号さんの番組出たり、正月劇場に行ってみたらお客さん超満員になってたり。
MAHA:じゃあ、生活できるくらい仕事はあった。
北:全然生活できましたね。僕は寄席の世界に入ってお金の苦労したことがない。テレビも出て劇場も出て、メチャクチャ忙しい。それを2年半くらいやった。
MAHA:そのあとは漫才を?
北:そう。そろそろ僕も一人でやりたいなと思ってた。所属してた事務所にバンドのボーカルの後釜として入ってきたのが今の相方。ほんで2人で遊びだして、ちょっと一緒に漫才やらへんかと。期間限定で、事務所にはそれは言わんとね。これがまた、バン、バン、バン!いったわけですよ。
MAHA:売れたってこと。
北:仕事がきた。仕事がきたってことは売れてるってこと。テレビ出演も。大阪ではテレビラジオで11本レギュラーあった。超売れっ子タレントだった。
MAHA:それでなんでやめちゃったの。
北:パントマイムあるから(笑)
MAHA:売れてるうちにやめたんだ。
北:そう。東京のレギュラー番組できて、東京に住めって言われたけど断って。
MAHA:それは何年ごろ。
北:1972年ごろ。漫才初めて1年半くらい。ものすごいスピードだった。ただね、それでロック畑の方に行くと今度はバカにされるわけ。一度ロックのライブに北京一・京ニで司会頼まれて行ったことがあったの、そしたらヤジが飛ぶわけよ、「こら、漫才師のくせに何やっとねん」と。で、もうやめたろか、みたいな。
MAHA:漫才師よりはロックがかっこいいと思った。
北:ああ、もう当時はそうですよ。
MAHA:じゃあ、やはりアンダーカルチャーの方がかっこいい。お金よりも大事。
北:そう、かっこいい。そこに僕のパントマイムも入ってたからね。やらんと後悔すると思った。ただ実はね、陰に隠れてパントマイムやってたの。チケット刷ってポスター作って。
MAHA:じゃあ、ゼンジーさんのアシスタントのときも、漫才のときも、独自にやってた。
北:そう、ソロマイムやってた。

■そしてマイム、大事なもの。
 

MAHA 北京一 マイム パントマイム ベリーダンス スタジオサンアンドムーン studio san and moon

MAHA:パントマイムに対する思いはずっとあった。
北:ずーっとあった。その途中で19歳の時に寄席の舞台があったわけで。ただそれもすごい勉強になったのだけど。時系列としては中学・高校でマイムにはまり、寄席行って、アメリカ行って、いったん日本帰って来て3年バンドやって、またアメリカ行ってそれからパリ。あと、も一度アメリカ行って、そのあとドイツに3年半。フランクフルト、ボンでパントマイムの公演やった。そんときにね、やっぱりパリのデュクルーの学校行ってた、っていうのはものすごく大きかった。
MAHA:ヨーロッパではデュクルーに習ったってことは評価が高くなるという。
北:めちゃくちゃ高い。デュクルーの家で習った、っていうのはアメリカでも評価される。そのころやめようかどうしようか悩んでいてそして行ったんだから、行って良かったとほんと思う。僕、思たんは、やっぱり何かやるときは、その一番トップの人に会うべきやと。自分がほんとにすごいなと思ったら、一日でもいいし、一年でもいいしその人に会ったほうがいい。見る、いうことは大事なことやね。芸人でもそやし、ダンサーでもそやし、この人すごい、と思たらその人じかに見てみるべきやね。そら、見るだけでもものすごい勉強になると思う。
MAHA:北さんのワークショップではここ(右手上げる)からここ(左手を上げる)の間が非常に大事だということをよく言っておられる。それはすごく共感しました。
北:ものすごくそれ大事にしている。そこが面白いとこなんです。僕は10代のころびっくらこいた、その(右と左の)間のもんが見えてくんねん。ないもんが見えてくることに僕はものすごく感動した。今だにそう思う。だからそこをめちゃくちゃ大事にするべきやと。
MAHA:マイム独特の表現の仕方に共感しました。
北:ダンサーの場合は、やはり言葉なしでそのフォルムとかムーブメントのなかに自分の感情がはいっていくじゃない。僕はそれがすごく好きなんで。言葉で説明しようとすると、言葉ってうるさすぎる。
MAHA:ダンスにしても例えば技術的に回転がどんだけできるとかどんだけ高く飛べるとか、ていうことじゃなくて、やっぱりその見えない部分が大事というか。
北:そのとおりです。脚上がるダンサーは上げるとこばっかり見せたがる。回れる人は何回でも回る。そんなんはせんでええって。そのへんはね、かえってテクニックが芸の本質をつぶしてるっていうことが多いよね。それを的確に言ってくれるパフォーマーにいてほしいし、いたとしたらその人が師匠やね。
MAHA:北さんがぜひ師匠として頑張ってください。
北:いやいや、はは、そら頑張らしていただきますけど(笑)そういえばこの前のイベント「蝶々パラダイス」(2019/03/09 @新宿ROSSO)の時、MAHAさんがリハーサルで普段着というか、私服で踊っておられた。あれば僕はもうびっくらこいた。衣装つけてるのもいいけど、あの時の私服で踊ったMAHAさんがとにかくもう、素晴らしかった、美しかった。カッコよかったですよ。
MAHA:まあ、私思うんですけど、歳をとってもいつまでも美しく、、。それはあの、見かけが美しいんではなくて所作、フィーリングの美しさを、と。
北:いや、これは歳じゃないですよ。
MAHA:魂。
北:そう、魂。ソウル。
MAHA:北さんのこれからの予定は。
北:やりたいことはね、いっぱいありすぎて。ていうかいっぱいのようでいっぱいでない。自分の時間の割り当てを考えてね。絵を描く時は絵を描いて。プレッシャーを与えずやりたい時にやりたいことをやる。あと、この人とやりたいなっていう人とのコラボをね、いろいろやっていきたい。
MAHA:自分の持ってるものって長年生きているからある程度形ができているけど、他のものと出会ったことでまた新しいものがでてきたっていうこともある。
北:そうそう。でてきますね。そういうことやっていきたいね。